コラム

【第6回】安定か自由か、生活か夢か

最近、TVで失業の問題に関して、こんな内容を報道していました。

慢性的に人手不足の、あるクリーニング工場が、年越し派遣村に求人を出した。家のない人も多いということで、住むところを用意し、給料もそこそこという条件だったにもかかわらず応募してきた人はたったの七人。しかも一ヶ月後まで残ったのはたった一人だった――

この話のポイントは、クリーニング工場での仕事が、対人スキルの必要な「接客」でもなければ「高度な技術」「能力」がいる仕事でもないこと。よく、就職口が見つからないという人にマスコミなどがインタビューすると、

「人づきあいが苦手で、接客なんて無理」
「介護なんて難しそうでとてもできない」

といったコメントが返ってくるのですが、そういった問題点は何もなかったんですね(体力的にはきつそうでしたが)。でも、募集してもあまり人は来ないし、続かない……。「仕事のやりがい」や「自己実現」、「楽に儲ける」といったマスコミに氾濫する言葉の呪縛が、「生活の安定」というメリットを蹴飛ばしてしまう、という側面がここにはあったのかもしれません。

この番組を見て筆者が思ったのは、「これは封建社会では、起きない話だな」ということ。

封建社会と聞くと、「縛り付けられてそうで、嫌だな」」「権威的な感じで、風通しが悪そうだな」と感じる方も多いと思います。実際、そういう面は確実にありますが、でも一方でメリットもあるんです。その典型が、雇用が安定していること。

これは筆者自身、勉強会でご一緒している徳川家広さんから教えていただいたことなんですが、「封建社会は、親の職業をそのまま受け継ぐのが基本なので、雇用の心配がなかった」というんです。

なるほど、さきほどのクリーニング屋さんの話でたとえれば、親がその職業をしていれば、「それがうちの家業だから」という理由で、有無をいわせずそれを職業にさせられるわけです。つまり、「夢」も「自由」もそこには無いかわりに、「安定」と「生活」は確実に手に入る、という形になっているんですね。

で、世界に目を向けると、まったく同じパターンで身分差別が残っている国があるわけです。それがインド。カースト制――日本人の目から見ると、酷い差別にしか見えないわけですが――がいまだ根強く残っているわけですが、そこには大きなメリットまたあるわけです。それは、インドの膨大な人口を食わせるための、職業区分を無理やりにでも生み、実際に生活させているということ。

「封建制」とか「カースト」とか、われわれ現代人にはマイナスイメージしかないものだったりしますが、実はそれ相応のメリットを持っていたからこそ、維持されてきた面が確実にあるんです。

でも、こうした「封建制」というのは、実力あるのに下の身分に割り振られたものにとっては、当然、理不尽にしか思えないですよね。渋沢栄一や坂本竜馬、福沢諭吉といった人々が身分制の枠組みのなかできわめて理不尽な思いを味わい、それをバネに明治の新しい日本を作っていったというのは、ある意味で象徴的な出来事なんでしょう。

でも、この例示した「自由」で「夢」の持てる社会を実現した面々を見てもわかるのですが、この社会は、明らかに「実力と運ある人間が住みやすい」面があります。正確に言えば、全体のパイが広がっている状況であれば、この社会でも夢を実現できる人も少なくないのでしょうが、パイが均衡したり縮小に向かう状況では、それができるのは「ごく一部」になってしまう可能性が高くなります。誰しも憧れる職業、地位、ポジションは限られているからこそ、憧れの対象、「夢」になるわけですから――

「自分が実現できていない夢を掴んだ、実力と運に恵まれた人間がいる」、という忸怩たる現実を前にどう振舞うべきかという難問は、封建社会における「無能な人間が、うまれの違いだけで偉そうにしやがって」という怨嗟の声の変奏曲として、現代人の多くを縛り続けているのかもしれません。