コラム

【第8回】眼高手低

会社を辞めたばかりの頃、書評の仕事で糊口をしのいでいたことがありました。そのとき書く内容に関して、気をつけていたことが二つあります。

1) その本を誉めるときは大雑把でもいいが、マイナス面を取り上げるときはとにかく具体的に書く。
2) 評価する側はどうしてもエラそうになりがちなので、なるべく(自虐系)ギャグを混ぜてみる。

 

特に気をつけたのは1)で、誉めるときは少々的外れでも大風呂敷でもいいと思っていました。それで実害が出るということが、まずないからです。

 

でも、マイナス面を書くさいは、もしその評が的外れだったり、間違っていた場合、その本の著者に多大の損害を与えかねないわけです。なので、何かあれば著者が反論しやすいようにと、具体的に書くことに意を砕いていました。

 

でも、いちいちそんなことまで考えない人も世の中多いんですね(笑)。逆に自分の書いた書評が誰かから論評されるさい、具体的に何を問題視しているのか見当がつかない――そんな類いの大雑把なマイナス評を目にするようになって、最近は書評自体、基本的に手を出さないようになっちゃいました。どうも根本的には、

 

・人生意気に感ず、功名誰かまた論ぜん「述懐」魏徴

 

という語句の方がぴったし来るので、功名を論じているより、意気に感じたことをやってた方が楽しいや、という感じでしょうか。

 

まあ、それ以前の問題として、書評はとにかくお金になりませんでしたね……。書評としては結構身入りのよい一冊で五千円の仕事があったとして、休みなく毎日やっても年収百八十万円強。これじゃ生活成り立たないよなあ、と。

 

その上、ちょうどその頃から、ネット上で素晴らしい書評が出るようになって、金を貰って書評することと、無料で書評することの壁がなくなり始めても来ました。

 

そんなこんなで、結局、中国古典や戦略関係の著作を仕事の中心に据えるようになったのですが、その間も、世のなかはどんどんネットを中心とする情報化が進んでいきました。気がつくと、本ばかりでなく、CDや飲食店、家電、ホテルなどありとあらゆるものに星の評価がつくようになっています。

 

こういうのって自分の買い物とかの参考にするには、とても便利なんですが、その中身の論評を読んで感じてしまうのが、先ほどの2)の観点。つまり、客観的な立場から「評」を振り回していると、どうしても「自分はエラいんだ」と勘違いする傾向が出るのかな、ということなのです。

 

このことは四字熟語でいえば、
「眼高手低」
という言葉にも関わってきます。つまり批評眼は高いが、実際の行動は大したことないという問題。これはおそらく人間一般に必ずつきもので、私自身ももちろんその一人です。

 

たとえば、今でもビジネス書を読んでいて、ダメ上司の描写などがあると「あいつもこうだった」とかサラリーマン時代の自分の上司を思い浮かべてムカムカしたりするわけです。でも考えてみれば、自分も中間管理職の立場であり、部下に対してはダメ上司ぶりを発揮していたわけです。

 

まさしく「眼高手低」の典型、自分が出来ていないのに自分の上司に求めちゃいけませんよね……。というか、昔の部下のみなさんゴメンナサイという話なんですが、トホホ。

 

でも現実社会、この「眼高手低」の状態にヌクヌクといて、その人が大成することってまずないわけです。というか、逆に成長の阻害要因になること甚だしいといった方が正解でしょうか。クラシックの吉田秀和先生やワインのロバート・パーカーのような批評家として活躍するなら、もちろん話は別ですが。

 

しかし一方で、こうした行為自体、実は批評の何よりの楽しみであるのは確かなのです。飲食でいえば、自分が名シェフたちの仕事を採点し、序列化し、睥睨する、そんな神の如き立場を手にすることができるのですから。この構図のなかで、神は当然、シェフよりも「エライ」となってもおかしくはないわけです。

 

ネットが発達する以前、こうした楽しみは一部の評論家だけのものでした。しかし、今やネット上で、誰でも海原雄山、誰でも魯山人というべき現象が現出してもいます。でも、きっとそんな「眼高」の評を書き散らす人も、現実社会ではきっと自分の仕事や生活における「手低」に苦しむ瞬間もあるわけで、映画『アマデウス』で描かれていたモーツァルトとサリエリの相克は、まさしく現代の情報化社会の問題を抉っているわけです。